“2代目帝国ホテル・ライト館100周年の目撃者たれ”                           (愛知県明治村でフォトウォーク)

【関東大震災が誕生日】
1890年(明治23年)、当時の外務省が建設を決めて宮内省が最大株主となってスタートした半官半民出資による初代帝国ホテルは、最初の10年間は客足も全く振るわずの閑古鳥状態で瀕死の経営状態にあった。外国人や要人向けの迎賓館ホテルとして国威掲揚目的で設立された訳だが、今と違って「居留地制度」の為に外国人の自由な国内移動や訪日自由化もママならぬ状況下では閑古鳥が鳴くことも云わば必然の状況であった。更には1919年に失火により全焼してしまう。この為、同時期に着工していたフランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)総指揮による新館拡張工事の完成が急務となる。度重なる設計変更と工期の遅延、更には6倍にまで膨張した総予算、経営陣との軋轢、ライトの後ろ盾となった林愛作支配人の辞職と直後のライトの米国帰国、等々の波瀾万丈と多くの困難・苦難を乗り越えて完成したのが通称「ライト館」と呼ばれるこの2代目帝国ホテルである。
今から丁度100年前の関東大震災当日にオープンを迎えた。
結局、F.L.ライトは米帰国後、二度と日本の地を踏むことはなかったので、竣工後の帝国ホテルの「勇壮」を見ることは生涯なかったのだ。経営陣との深い確執もあり、林愛作去りし後の帝国ホテルには一抹の未練も無し、という心境にあったことは間違いあるまい。
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【激しい地盤沈下で僅か竣工44年後に解体されるライト館】
「ヘドロのチーズ層」とまでライト本人に言わしめた日比谷の脆弱な地盤に建設された為、地盤沈下と老朽化が激しく、竣工後僅か44年目の1967年に惜しまれつつも閉鎖された。建設当時は約20m地下にある強固な岩盤の「東京礫層」にまで杭打ちする技術が無かったために、丸で筏(イカダ)のようにライト館を11カ所に分けてジョイント接合して対応している。その構造の優位性は関東大地震を耐え抜いたことで証明された訳だが、それでも44年の間に館内の廊下は波打つまでに老朽化したという。

註:「東京礫層」は新宿近辺では地下約10m程度、東京スカイツリーのある墨田区押上近辺では地下約50mにあるという。

その後、この明治村に玄関部分のみが移築された訳だが、移築にも予算不足で十数年を要し、1985年にようやく移築完成となる。現在の明治村で最大の建造物であり、同時に明治時代の建物ではない大正時代の建造物である点も特色かも知れない。
1893年開催のシカゴ万博における日本館が宇治平等院鳳凰堂をイメージしたと言われる「鳳凰殿」に強い印象を抱いたライトは、「ライト館」にもそのオマージュを盛り込んだ。兎に角、見どころが多いライト館なので興味ある方は独自に調べて頂きたい。

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今年で記念すべき100周年を迎える「ライト館」を初訪問する機会を得た。
明治村・ライト館の現在地を写真で記憶に残しておくことにしたい。

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【撮影機材】
ライカM11+Summicron35mm f2.0、Lumix GM-1+12-32mm f3.5-5.6 ASPH./MEGA O.I.S             

1965年に空撮されたライト館と帝国ホテルの全景。日比谷通りに都電の往来が懐かしい。
折しも公開中の映画『ゴジラ-1.0』では、この近辺が破壊し尽くされているが、
明治村に移築されたライト館は全体のごく一部と言うことも良く分かる。
見事に美麗な正面の光景。
ライトは当初、大谷石によく似た島根県産の赤褐色の「蜂の巣石」を利用することを検討したが、
産出量が十分ではないので大谷石で代替したと言われる。

そして、この大きな蓮池も設計段階では経営陣から必要なしとの大反対を受けたものだ。

欧米の建築物では見ない正面玄関に長く突き出した「軒」。
これも日本の神社仏閣の屋根からヒントを得たデザインと言えよう。
移築に当たりスダレ煉瓦や大谷石は多くが老朽化が激しく、
構造的にも取り外しが出来ないこともあって、新たな「復刻品」に変わってしまった。
更には軽量化を図る為にも樹脂部材が要所要所で使われていることも止むを得ない措置だろう。
軽量で加工し易く耐火性がある大谷石を多用しているが、強度的には脆い欠点もある。
その経年劣化をも表情の変化として計算ずくで石材として選択し、彫刻加工したというから凄い。
スダレ煉瓦を造る専門工場まで愛知県常滑市に設立したというコダワリと投資には驚いた。
その「帝国ホテル煉瓦製作所」が役目を果たした後年、
「伊奈製作所」となり、現在のINAX、そしてLIXILに育つことになる。
この独特な赤茶色が「テラコッタ」(伊語)と言われる素焼きのこと。
大谷石に至っては石山ごと買収したのだから当時の経営陣の反感も募るばかり。
大谷石には「ミソ」と呼ばれる粘土鉱物の茶色の斑点が見られるが経年で色抜けするという。
ライト館の背面から撮影。正面エントランス部分だけを切り取って移築された様子が分かる。
正面玄関前にある不思議なオブジェは再生されたもので、「壺」との説明書きがあった。
南米の古代アステカ文明やアンデス文明の雰囲気を感じる。

ライト自身は「古代マヤ遺跡」にもモチーフを求めていると後年述べているので正に感じた印象はその通りだ。

オリジナルの「壺」はライト館の横に展示されている。
大谷石製であることからこのように劣化している様子が良く分かる。
正面玄関ドアにある千鳥配列のステンドグラス。
天井の極端に低い正面玄関ドアをくぐり抜けると、エントランスロビーがあり、
荘厳な7段の階段が広がり、その階段を登ると一挙に天井が3階吹き抜けで高くなる。
ここで当時の来訪者は「おぉ~」と感嘆する、というのがガイドによる説明であった。
行燈をモチーフとした石柱ということだ。ここでも筆者は古代南米ムードを感じてしまう。
巨大な柱がこのように光り輝くという発想が非常に斬新で新鮮に感じる。
テラコッタ、和風行燈、スダレ煉瓦、大谷石の柱、というのが印象としてのキーワードだ。
ホテル客室にはこのピーコッコクチェアを筆頭に、照明や家具・調度品に至るまで
ライト自身が設計したデザインによる特注品が採用されている。
その代わりに、花瓶や絵画・掛軸類や高価な備品は一切配置しないのがライト流。
「ライト館」ではそうしたライトの思想を最後まで貫いたそうだ。
暗くて分かりにくいが1階の玄関を入ったタイル床のフロアがホテル受付エリアとなる。
このフロントロビーは30人程度の団体客が使えば一杯となってしまう。
戦後になって海外からも団体客が押し寄せるに至り、この狭いエリアが大混雑で機能不全になることも。
270室の客がチェックアウトすることを考えれば当然だろう。
壁や仕切りを嫌ったライトは階段で段差を付けて空間の流動性と連続性を表現している。
現代のバリアフリー的な発想とは対極的な構造にあるのかも知れない。
ライトは建築家であり、芸術家でもあると感じる。
有名なピーコックチェア。解体時には処分の為に多くが競売にかけられたとも聞く。
「この椅子は展示品ですが座ることが出来ます」と注意書きがある。
座った感じは可也ハード。自然と着座姿勢が良くなる椅子だろう。
個人的にはF.L.ライトの波瀾万丈で「奔放すぎる人生」と「不幸な事件」が余りにも衝撃的すぎる。

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2023年度の最終FOTOLOGはこの話題と決めていた。
振り返れば今回で120本のFOTOLOGを掲載した。
3日に一度のハイペースで更新を続けることが出来たことは初年度として幸い。
ご覧頂き有難う御座います。
皆さま、どうぞ良いお年をお迎えください。

【参考文献】
「帝国ホテルと日本の近代」(原書房)永宮和著
「フランク・ロイド・ライト最新建築ガイド」(株式会社エクスナレッジ)斎藤栄一郎訳

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(2023/12/27公開)18341    ※ブログ内容は適宜、加筆・修正を重ねています。

ゼンマイオヤジ

ゼンマイオヤジ

2023年になっても愛機ラジオミールがゼンマイオヤジを離さない。
でもロレもオメガもセイコーも、フジもライカも好みです。
要は嗜好に合ったデザインであればブランド問わず食いつきます。
『見た目のデザイン第一主義、中身の機械は二の次主義』

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