【あの写真の背中から見た城~広島城天守閉城の予感】
「日本百名城」にも数えられる広島城。
僕が広島城を「再訪」したのは、幼い頃の一枚の写真を胸に抱えていたからだ。
東京駅を出て列車に揺られ、夜を越え、未知の風景が窓外に浮かぶ頃、母の背中におぶわれながら写ったその写真。新幹線など生まれる前の時代だ。東京-広島間は急行列車や幾つもの乗り継ぎで二十時間程度は要したはずだ。旅行とはいえ、幼児を連れての長旅は可也、過酷であったのではなかろうか。そう思い当時の時刻表を調べてみると、
急行「安芸」(東京→広島):東京発 20:45 → 広島着 翌14:04(所要 約17時間19分)
やはり夜行の急行列車でも17時間強かかっていたことが分かる。
現在の東京ーニューヨーク間のフライトよりも長時間になるという訳だ。
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昭和の鉄路が山と川と海をつなぎ、汽車の揺れが眠りと目覚めを交互に呼び起こす旅だったことだろう。その旅の終点にあったのが、復元されて築後間もない広島城天守であり、それが今、終わりを迎えつつあるのを僕は見届けに行った。
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中御門跡の石垣は被爆により赤く変色しひび割れている。
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【原爆による破壊と復元、そして老朽~広島城の過去・現在・未来】
広島城の歴史は激しい。
毛利輝元が天正時代に築城を始め、その後の浅野氏など城主を経てきたが、昭和20年(1945年)8月6日の原子爆弾によって、安土桃山時代の木造天守は倒壊。城郭の門や櫓も壊滅的被害を受けた。 戦後、復興の象徴として1958年(昭和33年)、鉄筋コンクリート造で外観を復元されたのが現在の天守。外観はほぼ忠実と言われるが、木造建築の質感や内部構造は当時のものとは異なる。
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だが、その復元から68年を迎える来年、広島城天守は閉城の運命にある。2026年3月22日をもって、天守内部へは立ち入れなくなる。原因は明らかだ。耐震性の問題、コンクリートの経年劣化、設備の老朽化、そして安全性への懸念。 閉城後は取り壊しか、あるいは木造での再建か、現時点では白紙。広島市は有識者会議を設け、木造復元の可能性も含めて検討しているが、その実現形は未だ明らかでない。
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広島城は別名を「鯉城(りじょう)」と呼ばれる。一説では、この付近一帯が己斐浦(こいのうら)に
あたり、己斐の音が鯉に通じることに由来すると言われている。
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【母の背中とコンクリートの天守】
今や遠い記憶にもない幼児期の写真と、今この目で見る広島城の姿を重ね合わせる。母の背中の自分、東京発の列車の車窓、到着して見上げたであろう天守の輪郭。そして今、天守の鉄柵越しから見る木造の屋根瓦、石垣にのしかかる年月の影。あれから六十年余、鉄筋コンクリートの城は広島の武家文化を紹介する博物館として親しまれてきた。
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母の背に負ぶわれた幼児期の一枚。残った写真に記憶を巡らす。
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天守最上階は天守台から約20mにある第五層に位置している。
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【コンクリートの城、木造への問い~広島城閉城まで残された時間】
展望階に上る。
秋晴れの光が海を遠くまで照らしていた。厳島(宮島)の三山が、薄い靄の向こうにかすかに浮かぶ。島と海と空が重なり合い、戦前から変わらぬであろう瀬戸内の風景を見せてくれる。その眺めを、コンクリート製の天守の窓から見るという事実に、僕は少しばかり複雑な思いを抱く。あと半年もすれば、この場所からその風景は見られなくなる。母の背中で初めて訪れた城が、今こうして二度目の別れを告げようとしている。
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天守からの光景。写真中央遠くに厳島(宮島)の三山が浮かび上がる。
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全長68mある「多聞櫓」は木造で復元されたものだ。
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復元された二の丸の「太鼓櫓」も美しい。
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被爆樹木ユーカリ。爆心地から740m。被爆して生き残っているユーカリはこの木だけ。
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10月は乳がん啓発「ピンクリボン月間」だ。
広島城では中秋の名月のタイミングに合わせて、10月5日から7日間、天守がピンク色にライトアップされた。恐らく、この光景も今回が見納めになることだろう。
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人の記憶は必ず薄れる。
薄れる記憶は写真が救う。
カメラは記憶のタイムマシン。
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(2025/10/14公開)138500 ※ブログ内容は適宜、加筆修正しています。
